パイプ煙草 カーボンについて
しばらくぶりの投稿。
本日はパイプ煙草におけるカーボンについて。
実は今月中頃からどうもパイプが旨くないと思っていた。
自分なりに考えてみたところ、パイプ掃除の際、カーボンが剥がれ落ちた事もあって、ある程度カーボンを綺麗に除去していた。
カーボンについては賛否はある。
確かにカーボン無しに旨いパイプもある。
しかしながら実際の手持ちのパイプのほとんどはカーボンを除去する事によって全く愉しめないパイプに変貌してしまうのが実状である。
パイプの保護や樹脂の残留した臭い等は特に問題とは思わない。
私が感じるところ、カーボンによる吸水性が無くなってしまう事が大きい。
事実カーボンの除去を施したパイプは後半の煙草がべちゃべちゃに水分を含み吸えなくなるというこの一点に尽きる。
決して過燃焼を起こしている事による水分量ではない。パイプに穴を開けるほどの過燃焼など経験がないし、熱くて持てない時などほとんどない。
適切に喫煙しても有機物の燃焼時以外の水分は必ず出る。
ブローの呼気には必ず水分が含まれているからだ。
この水分をチャンバー内で蒸発させる事など、喫煙の序盤においては不可能であることは考えれば想像に難くないであろう。
パイプの木質による吸水性などは速効性という点では疑問符が付く。
ブライヤーとタバコの葉であれば葉の方が吸水性が高いと思われる。
この水分を含む呼気が底に詰められた煙草に当たり湿っていく。
結果として煙草が不味くなる。
このブロー時の呼気が大きな問題ではなかろうか?
システムパイプやフィルター仕様パイプではこの呼気がチャンバーに届けられる間に水分をカットできる構造になっているという側面があるのだ。
転じてカーボンがついたパイプは底の煙草まで燃やすことが可能なのである。
この結果は私にとって2度の検証と事実により導き出した一つの答えである。
小さな空間では微細な変化が結果を大きく変えている。
それは我々の”日常における物理的感覚”では感知し難い領域であると同時に、日常とは得てしてそのようなモノの集積であると認識している。
この結論はあくまで一つの結果に過ぎないとしたうえで、喫煙技術の未熟さの可能性は残しておこうと思う。
哲学は弁証法により、より高度な結果を導き出していくものである。
ある事象について断定するという行為は精度の向上をこれ以上見込めないという事でもあるのだ。